タイトル

三の糸 B

元々私の養家は血のつながりのない家族のよせ集まりだった。
祖父と父は本来は従兄弟同士だと聞いた。
母は結婚した私に息子達の誰かに養家を継いでくれることを願望した。
それは母の果たせなかった債務だから?
しかし・・・父の一言で私は救われた。
「私の時ですでに絶えている家、おまえが過度に責を負うことはない。」
同じ【もらい子】の立場の父と娘。
父の優しさは今も心の中のぬくもり・・・

養家のことに関してだけ言えば
私の結婚後約三年でふたりはどうにもならなくなって
私たちの家庭に飛び込んできた。   
それの一報は母からだった。
「商売がうまくいかなくなった・・」
もうすでに60歳をはるかに超えていた父と母はやり直しがきく年齢ではなかった。
まだこのとき私たち夫婦は借家住まいだけれど親子5人の慎ましやかな生活。
子供は男の子ばかり、長男と一卵性双生児の次男と三男。
婚家の最初の大嵐がやっと凪ぎになったときだった・・・

まだ若かった夫は、「一緒に暮らそう」そう言ってくれた。
いつかは・・・の運命にしてもあまりにも早すぎる。
夫に詫びながら、両親を迎えた。
借家は、夫の姻戚関係から格安で借りていて
当然の事ながら、私の親が同居することを告げなければいけなかった。
そんな事情など、何一つ知らなかったであろう家主に。   
玄関先で、一切合切を話す私は涙があふれて止まらない。
辛いと言うより、夫に申し訳なくて・・・

そんな風にして始まった同居。
父は晴耕雨読とは行かないまでも孫の守をしたり、
夫は父の影響で剣道も始めてふたりで道場通いなど、小さな充実があった。
けれど・・・母は違った。
きっと、自分を殺すような生き方は出来なかったのかも知れない。
ある日、父を残したまま突然家を出た。
某旅館の住み込み女中になった。
もちろん最初から孫の世話などする人ではなかった。

それから半年ばかりして、母は父を迎えにきた。
「私はこのままでも良いけれど・・」そう言う父の声を遮って
母は荷物の整理をして、なにも言わず去った。
もう、二度と母の老後は看まい・・・
心のどこかで私はそう思った。
それと同時に安堵感も・・・

多分、この日私は母と「親子」という関係に決別したのかも知れない。
もし、本当の母親ならこんな仕打ちはしないだろう。
そう思ったからかも知れない。
母を責めているのではないが、同じ事を私ならどうしただろうと思わざるを得ない。
この日を分岐点として母子の気持ちは永久に交わることなく交差したまま離れていった。

それから足かけ十年
舅が亡くなって一周忌法要の翌日、父は突然逝った。
最後まで控えめな、私を案じた父の最期だった。
母に呼ばれて急いで行った私たち。
まだ父は意識もあった・・・
こんな状態で・・・そう思いながら入院準備をしていた。
母は一言「付き添いはできんけん。」そう言った。
その言葉が父の耳に届いたかどうか知るよしもないが
それから数分後父は息を引き取った、
「有り難う・・・」の言葉を残して。
あまりにも見事な古武士の散り様だった。

母は・・・それから葬式も含めて涙ひとつこぼさなかった。
私は・・・これほどの涙がどこから湧いて出るのかと思うほど泣き濡れた。

それからまた十年
母は、借家を点々としながらでも自由気ままな生活をした。
やがて、八十歳・・・借りられる借家がなくなった。
ちょうど姑が亡くなった年の秋。
姑は入退院を約十年繰り返した。
「お母さんを引きとってあげな。。。」姑の口癖だった。
来たくて来る母ではない、どうしょうもなくなってきた母の第一声は
「居候生活の始まり!」

それから見る間に八年の歳月が流れた・・・
しかしそれは直接傷つけ合うことはなくてもやはり修羅場。。。

最近になって母が言う
「私が死んだら○○のお墓に分骨してよ。」
残念ながらそれは出来ない相談。
いかに婚家の姑と気が合わなかったからと言って
婚家でもない○○家(父の生家)には分骨は無理。
あなたが約束したという祖母はもうとうにお墓の人だけれど
すでに二代も代替わりしてあなたは全くの他人。
そのことでこれから先私を恨むのならあえて受ける。
それはあなたの我が儘だと思う。

付記しておくとするなれば・・・
数年前、私が椎間板ヘルニアで歩けなくなって「手術もやむ得ない」
そう言われて近所の医院に約二ヶ月入院したとき
母は一度たりとも病室に顔を出すことはなかった。
毎週、息子達(私の)が階下の診察室に治療に連れてきているにもかかわらず。
それをどう受け取るかは私の心の問題だけれど
またしても逆の立場ならどうだろう?!と自問したことは言うまでもない。


HOME NEXT BACK TOP