タイトル

ゆき

薫子はいつか天上の煙と自分がなったとき
必ず、見つけなければいけないものがあった・・・
それは顔も知らない生母でもない。
幼い自分を慈しんでくれた養父でもない。
それは・・・「ゆき」
雑種の犬
写真すらない、記憶の彼方でかすんでしまいそうな「ゆき」
たとえ、天上の雲のなかに隠れていようとも
探し出さなければいけない
「ゆき」と別れたあの日から心に重くのしかかる。
ごめんね、ゆき。守ってあげられなくて

ゆきと巡り会ったのが冬か夏かそれさえはっきり思い出せない。
ただ、長男(ぼんくら)がお腹にいたような記憶が・・・
何かで実家に帰ったとき
「ゆき」は交差点の真ん中をヨタヨタ歩いていた子犬だった。
『轢かれる・・・』
とっさに薫子は交差点の中に入って子犬を抱え込んだ。

救ったはずの命・・・
けれど薫子はこれから何年後かに
「ゆき」を見捨てた・・・
その現実が今も薫子の胸を締め付ける。
あの瞳の信頼を裏切った自分が許せない。
もし・・・
神様による『最後の審判』があるのなら
どんな審判でも受けよう。   
でも、その前に「ゆき」を見つけなければ
そして、一言
『ごめんね・・・』と
許しを請うことは出来なくても
心から「ゆき」に謝らなくては
神の御前には行けない。
もちろん薫子はキリスト教徒ではないけれど。
魂があるのならば、これだけは・・・

ライン

「ゆき」を助けた後で、どうするか迷った・・・
薫子自身は犬を飼ったことがない。
今までは家族が飼育していたから
動物たちがいて当然の家庭で育った。
けれども、薫子自身が餌をやったりしたわけではない。
本当のことを言えば・・・
犬を飼う自信がない。
餌だけじゃなく、散歩も行かなくてはいけないし。   
まして身重の我が身だった。
ただ、弓彦が24時間勤務という特殊な仕事だったため
薫子は全く一人の時間を何日間か過ごす。
ひとりぼっちの淋しさも手伝って
「ゆき」は薫子の家族となった。

「ゆき」の名前の由来はその頃のアニメから母が付けた。
真っ白な犬ではなかったけれど
中型犬と小型犬の間のような大きさ
白い毛並みに黒いぶちがあった。
女の子で、どちらかというと自己主張しない
どこかおどおどした犬だった。

出産までは弓彦と薫子の家にいた「ゆき」
その後しばらく母の元で暮らした。
薫子自身が育児に忙しかったこともあるけれど
「ゆき」は母と暮らす穏やかな時間が
一番お気に入りだったのかも知れない。   
母は、人以上にかわいがるから・・・
どちらかというと気の小さな弱虫「ゆき」は
母が好きだったと思う・・・

ただ、「ゆき連れて帰りなよ」と言う母の一声で
きっと「ゆき」の幸せは吹き飛んだ。   
そう・・・それからしばらくして事件が起きたから。
「ゆき」にかまってやれる
余裕などないほど暗闇の中に落ち込んだ。

犯罪者の家族・加害者の家族、
そんな世間の目の中で何ヶ月も過ごした。   
お金もなかった・・・
心に余裕もなかった・・・
舅・姑との別居もこの事件でやむなく同居となった。
それでも、何とか「ゆき」とも生活は出来ていたけれど
「ゆき」はめまぐるしく変わる環境にうろたえていた。

まだその頃、飼い犬は繋ぐと言うことが
今ほど徹底されていなかった。
夕方や夜になると、追い放された犬が沢山いた。
そして薫子の知らないいうちに「ゆき」は妊娠した。
そして3〜4匹の子犬が生まれた。

今なら、避妊という方法も知っている。
でもその時、獣医に幾らお金がかかるか
それさえ知らない薫子だった。
子犬は可愛いけれど・・・
「ゆき」にしても当惑したような母犬だった。
これからどうする・・・

その日薫子は決断を迫られた・・・
・・・親子とも役場に連れて行こう
つまり、数日後には保健所。
だって、こんな環境で飼ってやれないじゃない
半ば絶叫のような心の叫び。

数時間後、「ゆき」親子は役場の檻の中にいた。
『ごめんね・ごめんね』心の中で何度も詫びた。
・・・でも明くる日、薫子はたまらくなって
「ゆき」だけを迎えに行った。
小さな命は檻の中に残された・・・

それでも何とか「ゆき」だけは救った。
そう、愚かにも薫子は思った。
それからまた半年ほどして「ゆき」は子供を産んだ。
その上悪いことに、人を咬んだ・・・
それは「ゆき」にとっては防御本能なのだけれども。   
今度ばかりはどうすることも出来なかった。
何を思ったのか姑は「ゆき」以外にいた
もう一匹の老犬も捨ててくるように言った。
あの時・・・きっと、みんなの心が荒んでいた。
『世間』そんなものにも遠慮すべきだ・・・
そんなことすら、私たちの心に影を落としていたのだ。
後になれば、どうしてと後悔ばかり残る。

老犬は賢い犬だった。
ある程度遠くに連れて行かれたのを察知したように
自分から車から降りた。
そして、そのままどこかに歩いていった。
「ゆき」は・・・
どうする、どうしよう・・・
やがて、土手で車を止めた。
「ゆき」と子犬たちを降ろすと
弓彦と薫子は急いで車に飛び乗った。
子犬たちは最後の餌を必死に食べている。
「ゆき」は・・・
その瞳を薫子に投げかけたまま・・・

この日のことは、いつまでたっても消えない心の汚点のように
年をますごとに、影の大きさが大きくなっていく。   
どんな辛い出来事よりも、深く心の傷となって
癒えることはない、さらに傷跡は大きくなっていった。

薫子は助けたはずの命を最悪の事態に追い込んだ
そんな自責の念がずっと尾を引いた。
もう二度と動物は飼うまい。
そう決心した。


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