タイトル

悲しき誤算

人生の残り火があとわずかになった母。
後悔しても、後悔したりない誤算・・・悲しき誤算。
恐らくこのことの関して、母は相当な未練を
この世に残したと思われる。
最後は口にしなくなったけれど
きっと一番辛くて悲しい出来事・・・

ライン

国立療養所に入院したその日
院長は家族を呼ぶことを勧めた。
人工透析自体が出来る体力ではなかった・・・
弓彦の兄弟
≪健吾≫は、その頃某大手メーカー(化粧品部門)に
転職して県外にいた。
≪アキラ≫は、あの事件後、すべてを受け入れてそれでもと、
乞われて隣県のある家庭に婿養子に入った。
そんな兄弟が久しぶりに院長の下に寄せ集められた。
院長の説明を聞きながら・・・
別のことを考える者もいた。
「こんなになる前に・・・」
そう、多くの家族がいつも言う言葉。

けれども、これは一緒に生活をしていない者は
決して言ってはいけない言葉・・・   
たまに来て、うわべだけ良い子で通り過ぎていく。
病人にしても、老人介護にしても
実際にお世話する家族でないと解らない修羅場がある。
決して軽々しく言ってはならない・・・   
狂人と化した母との地獄のような日々は誰も知らない。
特に老人介護でも、お世話する方をねぎらう言葉は
あまり聞かれないけれども
これこそ一番大切な思いやりだと薫子は思う。  
「いつも有り難う・・・」
多くはいらない、この一言で報われる。

それでも、さしたる波風は立たず、時間が過ぎていった。
何とか透析も始まって、小康状態になった母。
ところがそれは一本の電話から始まった。

≪アキラ≫からだった。
そして信じられないことを言った。
「そんなこと絶対ないよ・・・』」
そう言って受話器を置いた薫子は呆然とした。
まさか・・・
そんなこと絶対ないよね・・・
頭の中を答えにならない文字がぐるぐる回った。
そう、絶対あり得ないことが起こった。
いぶかしがる弓彦に話すのが憚られた。
それは≪健吾≫が・・・

狂った母が、小康状態になった頃
≪健吾≫が頻繁に見舞うようになった。
薫子はありがたいと思った。
母はことのほか喜ぶ。
これを買ってくれた、あれも・・・と

けれども、このとき≪健吾≫は母からある場所を突き止めていた。
それは保険証書。
後になって思えば・・・
母は薫子に「これとこれは、私が死んだら健吾とアキラにと・・・』
いつか言っていたような気がする。
弓彦にもそう話したことがあった。
「おいおい、僕らには?」
「なにもないんじゃない?」冗談のような会話があった。

母は≪アキラ≫の賠償金を払うのに明け暮れた。
絶対この世には残すまいと・・・
だから、正直遺すような財産はもちろんない。
弓彦との生活も食べていくのが精一杯。
わずかな郵便簡易保険の証書
たかが満期は知れている・・・
バブルの高金利のためおよそ倍にはなっていたけれど・・・
この二枚の証書を≪健吾≫は留守中に
黙って持ち出した・・・

その連絡が事もあろうに≪アキラ≫から入ったのだ。
「兄貴が僕の分まで持ち出した。取り返してよ・・」
まさか、留守中に家の中を物色?!
いくら兄弟でもそれは許されるものではない・・・
まして、母はまだ生きているのに・・・
≪健吾≫にすれば、
母が死んだら自分の物にはならないと思った?

≪健吾≫への電話のダイヤルを回しながら
薫子は涙があふれそうになった・・・
電話口の≪健吾≫は「あれは僕の金やから・・・」
そう冷たい言葉が返った・・・
弓彦に変わったけれど「兄貴とは思っとらん・・・」
その言葉を返されたとき、弓彦は
「アキラの分は返してやれ・・・」
そう言って電話を切った。

その夜、弓彦と薫子は号泣した。
100%信じていた者に裏切られると言うのはこのことか。
母もそうだけれども、弓彦も
≪健吾≫&≪アキラ≫には出来るだけのことをしてきたつもりだ。
自分たちの子供にしてやるよりも彼らの子供に・・・
〜してやったのにというのはした側の驕り。   
何にも増して弓彦は幼い日の映像がだぶる。   
それを教えた母にも・・・
なぜ・・・ふたりは眠れぬ夜を明かした。

ライン

翌日病室に向かう薫子の心は重たかった・・・
「お母さん、つまらない事をしたね。
心の整理する時間が欲しいから、しばらく来ないから・・・」
そういって病室を出た薫子。
母は、きっと事の重大さにこの時初めて気が付いたのだ。
だからといって、いつまでも母を放って置く訳にはいかない。
数日後・・・
「大丈夫、今までと変わらず来るからね。」
母の眼から涙がこぼれ落ちた。
「まさか留守中に黙って持って行くとは思わなかった。」

その後薫子は≪健吾≫の妻に手紙を書いた。
「心の窓を開けています・・・」と
けれども返信は≪健吾≫の電話口と同じだった・・・
薫子は心の窓を閉じた。

何度も≪健吾≫に会うことを望んだ母だけれども
≪健吾≫も妻も孫達もついに現れなかった・・・
母が亡くなって、葬儀の日だけ顔を見せた。
それ以後一切姿を見せない。
母は言った・・・
「生きているときに会いに来てくれなかったら
死んでからなんって値打ちない・・・」

≪健吾≫のことは口にしなくなった
母の心境を思うと切なかった・・・
後、残された時間はいくらもない。
弓彦に内緒で電話をしたけれど・・・無駄だった。
葬儀の日、涙をぬぐう≪健吾≫を見たとき
薫子は棺の中の母が不憫で泣き崩れた。

後日、人伝てに聞いたことは
≪健吾≫がなにがしかの借金をしていたこと・・・   
それならそうと言ってくれればこんな事には
母をもう少し安らかに送ってあげられたのに。   
一言「ごめん・・・」と言ってくれたら
みんな水に流せたのに・・・・
その後の法事にも姿を見せない≪健吾≫たち。
母は最後にこういった
「健吾が来たら よう来たなって言って お茶汲んだってよ。」
お母さん、まだお茶を汲む日は来ないよ・・・


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