タイトル

祖母 & 祖父

薫子がおばあちゃんと呼ぶのはこの人だけ・・・
養父の実母 。
何ともややこしい関係である。
薫子の養父も里子に出された人だから・・・
この人にとって全く赤の他人の薫子。
けれど薫子は彼女にとっても
一番そばにいた孫には違いなかった。
養母に言わせるときつい人であるけれど
薫子には『優しかったおばあちゃん』の記憶しかない。

何も構えない幼子は
人の心を奪うのはうまい?のかもしれない。
養母と添い寝をした記憶はないけれど・・・
祖母の家には小学生の間中
土曜日になると押しかけていたような気がする。
ここは薫子の養父母が軒先を借りて
小さな食堂を経営していた。
うちで、ひとり待っていても養父母達が帰るのは深夜。
その頃は家に祖父がいたけれど・・・
薫子は小さな風呂敷に枕を包んで祖母の所に出向く。
明治生まれの祖母は几帳面で優しかった。

日曜の朝は決まって近くの檀家寺にお墓参りに行く。
いつの頃からか薫子は祖母について行くようになった。
まだ、はんぶん寝静まったような町並みを歩くのが好きだった。
祖母は薫子専用の米袋(お供え用)を作ってくれた。
信心と言うほどではないけれど
明け方のお墓の掃除をして爽やかな気持ちで境内を歩く。
傍らには薫子の話を黙って聞く祖母がいた・・・
満ち足りた時間がゆっくり過ぎる。

ほとんど記憶から消えかかってはいるけれど・・・
薫子には忘れられない味がある。   
芋がゆ・・・
いつものようにお墓参りから帰ると
祖母は行平で芋がゆをことこと焚いてくれた。
薫子の記憶の中には・・・
(もしかしたら間違っているかもしれないけれど )   
ちょうど『銭形平次』が座っていたような部屋
後ろが仏間(ふすま一枚分)
前には四角い置きいろりがあった。
そこで芋がゆが煮えていく。
ほのかな甘いにおいとともに
寒さで凍えた手をかざしながら
「まだ〜〜?」と祖母に聞く薫子。

ライン

祖父・・・養父の養父
はて、これもややこしい(爆)
薫子が幼稚園の時、突然 夜行列車で長崎に行った。
その頃の薫子は知るよしもないが・・・
養父の養母が亡くなったのだ。
彼らは戦前あるいは戦中、
上海でかなりきわどい商売をしていたようだ。
食堂とも、遊郭のような物とも聞いたがはっきりしない。
嘘か誠か、飛行機を寄付したなどと言うことさえ聞いた。
もっとも、戦闘機という代物ではなく、
ベニヤ板のような飛行機?
とにかく物事が大げさに聞こえる祖父の話・・・
ただ、戦後使用人だった中国人に助けられて
無事引き揚げ者となって長崎に住み着いた。

後に聞いたのだが・・・
養父母達は長崎に移り住んでも良いと思って出かけたらしい。
けれども祖父の生活は・・・
恐らく、今で言う三坪ばかりの
間借り生活ではなかったのだろうか?
確かトイレもなかった。
用足しは洗面器だったように思う。
階下で一杯飲み屋を経営していたらしい。
それでも、人当たりは良かったのか
今残る写真の中には数人の女の人が薫子を囲んでいる。

養父母達の思惑ははずれ、葬儀を終えて帰ると
まもなく祖父もこちらに帰ってきた。
何をするというわけでもなく
いわば、貧しかった家に口数が増えただけだった・・・
そんな事情もあって、養父母達は食堂を開店した。
このときから、薫子の食事は祖父が面倒を見てくれた。
元々器用な人だったのか、料理人だったのか
宴会料理は玄人はだし。
薫子の目から見てもいっぱしの職人だった。

薫子の遠足のお弁当・・・
昔の結婚式の折りを覚えている人はいるだろうか?!
祖父は飾り切りをしたハランやリンゴ、伊達巻き
彩りよく入れてくれた。
決して贅沢なお弁当ではないのだけれど・・・
祖父の見事な包丁さばきに内心感嘆した。
『母』のお弁当ではなかったけれど・・・
級友達は自分ちで作ったことに
いささか、驚きと羨望のまなざしがあった。

養母の『母の味』はその後薫子の記憶に何も残っていない。
ずっと祖父が食事は作ってくれた。
魚が多いと言って文句を言ったり
煮物を嫌ったり。
色々あったけれど・・・
よくよく考えれば、薫子の食感は祖父の味。


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